ずんの日記

毒にも薬にもなりませぬ

軽井沢へようこそ

私のセカンドハウスは、ねずみが出て

カメムシが大量侵入する、湿気が高い山小屋だ。

しかし、新緑は美しく、緑に囲まれ、

鳥のさえずりと川のせせらぎしかきこえない、静けさがある。

ここは、まぐれもなく「美しい村」の一部であることを実感する。

そんな光景を横目に、わたしたちは机のパソコンに向かって

かちかちキーボードを打ったり

画面に話かけたり(Web会議)

ブツブツ仕事をしている。

こういう生活を選んだ、のだ。

東京との一番の違いは、涼しいこと(寒いくらいだが)

山が近くにあること、温泉が気軽に行けるところにあること。

それ以外はたいして変わらない気がする。

そう、この山小屋は昼寝ができるソファを二つ完備した。わたしのこだわり。

東京の家にはリビングで横になれるスペースはない。

一人掛けソファが2脚置いているだけだ。

そして、ここには広いバルコニーがあって

食事やバーベキューができるスペースとテーブルセットを設置した。

そこが大きな大きな違いだ。

それがある日常と、それがない日常と。

 

今年の軽井沢のはじまりは、ねずみの死体と共ににはじまった。

最初の1週間はねずみとの戦いとなった。

そういうわけで、気もそぞろだし、仕事も地味に忙しく

久しぶりのブログ更新となってしまったが。

また別途ネズミとの格闘も書きたい。

美しすぎない軽井沢の現実、浅間山のふもとの生活を。

それでもここにいたいという気持ちを書きたい。

 

いずみん@2022年初夏

 

f:id:zumi_blog:20220610225158j:image

(どうでしょうか、この窓からの景色。新緑すぎる千ヶ滝の森)

 

f:id:zumi_blog:20220610225216j:image

(猫が折り重なって眠っているソファと新緑。昼寝スポット)

エスパーまみ

家で夫婦そろってテレワークをしていると、

夫の会議の声とかが普通に聞こえてくる。

会社にいるとフロアにいるいろんな人の話し声の中で仕事をしていたが

家にいると夫が誰かと話しているのが

唯一のノイズということになる。

 

夫は、自分のことを自分が一番分かっていないことを例えるのに

エスパーまみのエンディングの歌を引用する。

【わたしだけが~ わたしの恋を~ ああ~未確認】

というやつだ。

オンライン会議で誰かと話をしているらしく、またその引用を使った。

「ご指摘ありがとうございます。言ってもらって助かります。

人のことは分かるのに自分のことだと気づきないことってあるじゃないですか。

エスパーまみの歌にもあるじゃないですか。

わたしだけがわたしの恋を未確認、と。」

・・・

言った後、長い沈黙が流れている。

それはうまく伝わっているのか、クスリとも笑いが起きているのか

気になってしかたがない。

オンライン会議でヘッドホンをしているので相手の反応は伺い知れない。

言われたほうも、「あーはい」となるのか

「知らんし」ってなりそうだし

エスパーまみ、て」ってなるだろうし

いずれにしても反応に困るだろうなぁとか

想像していると、じわじわと面白くなってくる。

 

組織のマネジメントの在り方をいうときに、スポーツの監督の話をする。

「サッカーやラグビーの監督を見てごらん。スーツを着ているだろ。

試合が始まったら選手に任せてるんだよ。これらは選手のスポーツなんだよ。

野球を見てごらん。監督は選手と同じユニホームを着てるだろう。

スポーツの中でも唯一監督が選手と同じ格好をしてるんだよ。

あれは監督のスポーツなんだよ。」

と。

これ鉄板ネタで、初めて聞いた人はおおむね

「確かに、その通りだ。気づかなかった。」

と、いいこと聞いたリアクションをしてくれる。

自分から招いた困難を自分で解決して手柄をとったように見せかけることを

「それは江夏の21球だよ。」と言ったりする。

 

比喩を使うことは重要だと力説していている。

確かに物事の本質や成り立ちを分かってないと比喩を使うことはできない。

ただ、元落研でもある夫は、ただうまいこと言ったなーと

思われたいだけだと思うんだけどね。くすっと笑いもおきるしね。

サービス精神旺盛というか。

 

しかし私の日常はこういうじわじわくる笑いでいつも支えられている。

 

いずみん@シン・ゴジラは災害や戦争のメタファーなのかな。今日からシン・ウルトラマンですね

【読書感想】生きてるだけで、愛/本谷有希子/新潮文庫

ダチョウ倶楽部上島竜兵さんが亡くなったニュースが流れている。

いつも気になるのは、そうなる前に、精神科のお医者さんにかかっていたか

どうかということだ。

そういうことに全く触れられていないので

恐らくかかってなかったのだろうと推察する。

全くの持論だけど、自殺ををする人にはなんらかの性格の特徴や

陥りやすい精神状態の特徴が元々、ほとんど生まれ持った性質のように

あるのではないかと思っている。

よって簡単に変えることはできないし、改善することでもない。

だからそれを知って対処していくしかないと思うのだ。

そのためには、もっと心理カウンセリングが身近でなければならない。

いまだに心の病を責任論にしがちな日本の風潮は変わってないし。

日本の精神医学学会は何をやっているんだ!!(よく知らんが)

とか、怒りの矛先をそっちに向けてしまうわたし。

その活動の怠慢だとあえて言うよ!!

 

よく知らない専門領域なので、

「精神 医学 学会 自殺研究」でググってみたら一番にでてきたのは、

【自殺対策に関する声明 - 公益社団法人 日本精神神経学会

2015年の声明のようだ。なんと古い。。

 

日本は自殺や鬱の研究をもっとすべきですよ。(現状よくわかってませんが)

そこで、「精神 医学 自殺 コホート研究」で検索すると

コホート研究による子どもの自殺関連因子と予測因子の解明】

かなり求めているイメージに近い。

「自殺の予兆を捉えるエビデンスに基づく指標とその後の対応指針の策定の根拠となる研究が必要である」

その通りだ!しかし子どもに限定せずにやってほしいなあ。

また、

【婚姻状況と自殺リスク】

【飲酒と自殺リスク】

とかがヒットして連なるが、こんなの因果関係あるに決まってるしなんか古いな

と素人のわたしでも思わざるをえない。

 

とにかく、こういう悲しいニュースを、ただただ憶測の原因推測で

ネットをにぎわすのではなくて

精神病に関する対処と知識がもっと普及する機会とすべきと思ってます。

(まじめかわたし)

 

ちょうど、鬱病症状をもった25歳の女性を主人公にした

「生きてるだけで、愛」を読了したばかりで

彼女の挙動や発言を読んで「鬱」ってこういう症状なのかなあ

などと興味を抱いていたところだったので、よりタイムリーだ。

改めて鬱の人ってどんな人かよくわかっていないことを認識した。

 

若い鬱に入っている、なんだか激しい性格の主人公ヤスコ

一人称の呼び方は「あたし」

少し苦手なタイプだ。

とにかく、はげしく、狂おしく、わがままに

世の中に相反して、成り行き出会ったツナキと同棲して

養ってもらっている状態。

元彼女が出てきたり

ヤンキー一家が営むイタリアンレストランでバイトしてみたり

最後は雪の中マンションの屋上で?裸になってツナキと対峙したり。

こういう鬱のなり方があるのかなあ、と自分の中の事例となった。

しかし、この本の巻末の解説にかなり救われました。

解釈を与えてもらったというか、腑に落ちる。

自己完結した人間の恋愛について書いているものなのだと。

なるほど。

本谷有希子の作品には、小説・劇作を問わず、思い込みが激しい激情型・メンヘル型の女が暴走するというシチュエーションがしばしばみられる。だがこれは、単なる自虐ネタではない。自己完結だろうが二者完結だろうが、相田みつを的世界における家族的完結だろうが、とにかく内に向かって完結しようとするダイナミズムに対する破壊的な逆行なのだ。自意識過剰で自己完結しがちだからこそ、ヤスコはときおり奇行によって心のバランスをとらなければならなくなる。」

 

つまり、彼女は必死に生きているタイプの鬱だし

わたしのような平凡な人間は、完全に自意識過剰の自己完結型人間ということだ。

 

以上の解釈は極一部だが

こういうことをしっかり演劇的な作品の中で普遍化することができる

本谷有希子さんの才能に敬意しかない。

 

f:id:zumi_blog:20220512175837j:image

 

いずみん@生きてるだけで愛、ですよ

 

 

エコバックの違和感について

スーパーの袋が有料化されてから久しいです。

しかしそれが始まったときから違和感を感じていたのですが

それによってごみって減りましたか?

エコバックという名の「プラスチックごみ」が増えている気がしてならないのです。

 

エコバックで買い物をするようになりましたので

もらうスーパーの袋はもちろん減りました。

しかし、スーパーの袋を今まで乾かして、たたんで

ごみ袋として使用していたものとして

スーパーの袋は別途ホームセンターや薬局で買って、ごみ袋として使っています。

ただお金がかかっているだけでごみの量が減ったという気がしません。

 

エコバックをもってスーパーでビニール袋をもらわなくなったから

とてもエコなことをしていると満足してていいのか、ということです。

志が低すぎる。

そもそもエコバックもファッション化してませんか

すなわち、マウンティングの道具と化している気さえします。

有名ブランドがやたらとエコバックを出したり

それがビニール製だったり、それでエコだと叫んでみたり

なにかちょっとずれていませんか。

そのブランドに興味がなければ、それはただのプラスチックごみだ。

 

エコバックを使っている人は何も悪くないです。

政策が中途半端なのと、それを利用して金儲けする人を批判しています。

 

さて、楽天市場をみていたら

「こんまりのときめきライフ」というのがあって

こんまりがセレクト商品を紹介している。

ときめなかないものは捨ててしまえという断捨離のいわばパイオニアなわけですよね。

その方がモノの購買を促す側にいるとは

わたしにはまったく理解がおよびません。

もし、このサイトでお買い物したことがある人には申し訳ないが

モノを所有するというは自分のときめきアンテナでちゃんと判断する必要があるよ

地球の温暖化まったなし

しかしこれもどちらかというと提供する側の責任が大きいと考える

 

エコバック問題とこんまりときめきライフに対する違和感は

ちょっと似ている。

 

いずみん@ゴールデンウィークは腑抜けていた

バチェラー4みて力説する人

先日、最後の親知らずを抜いた。最後の一番厄介な横になってる親知らず。

痛みに耐える時間が長い。

それなりに痛み止めを服用すると、ぼんやりしてしまう。

痛みに耐えている時間はやることがない。

そんな時に、先日通しで見直したバチェラー4について悶々と考えていた。

バチェラーシリーズは、くだらないと思いつつも面白がってみている口だ。

しかしこのシリーズ4は遺恨が残った。

なので二回目、今度は一言一言丁寧に人が話しているのを聞いてみたくなったのだ。

 

基本的に全員、売名のためか、お姫様生活にあこがれて参加しているだけ

だと思っている。本気でこれによって結婚したい人なんてほとんどいないと思うけど

結婚できてもラッキーくらいのなし崩しはあるかもしれない。

 

残り3人まで残ったのに元カレが忘れられないという理由で

脱落した女の子がいた。ここにくるまで、その気持ちに気づかなかったと。

またまたーと完全に疑っている。

恐らくバチェラーのことがタイプじゃなかったか

好きになれなかっただけだと想像する。それは誠に仕方がないこと。

好きじゃない人に好きだと迫られることほど嫌で恐怖なことはない。

それに耐えられなくなったのだろう。

脱落する寸前までは好きだったということだが、引っ込みがつかなかったのでは。

別にバチェラーそんなにタイプじゃない、って言ってもいいと思うが。

このゴージャス生活への未練やTVショーに関わる影響を考慮した上の理由だろう。

 

一人、ダンスがうまいアメリカ在住の医者という女の子がいた。

とても不思議な雰囲気をまとっていた。

医者になるくらい頭がよかったら

バチェラーなんて恥ずかしくて出られないか、

または出る必要性も感じられない。

美しい人だからもてるだろうし、玉の輿ねらいも必要ない。

そうなると残る動機は、なんだか出てみたかった、だ。

テレビに出たいとか、人に見られたいとか。

しかしね、それも立派な理由だと思っているのです。

結婚も経済力も関係ない、20歳代の美しい女性なんて

ただただドレスを着て、美しくなって誰かにみられたい、そんなもんだ。

妖艶なダンスを踊っていたけれど、そんな素敵なパフォーマンスがあるなら

なおさらだと思う。

彼女は結構いいところまで残っていたものの、二人きりのデートもなく

脱落していった。

最後の別れ際にバチェラーは何かを言おうとしたけれど

彼女は手のひらを彼に向けて拒絶のジェスチャーを示して

理由は聞きません、というようなことを言って去っていった。

彼女の怒りは、まだ土俵にもあがっていないのに

落とす判断をされたことではないかと想像する。

知的な女性に対して、それは大変残念で屈辱的だっただろうと想像する。

そしてやっぱりあなたのように医者で海外に住めるような女性が

参加するようなイベントではないだなと改めて思ったよ。

 

今回、遺恨に残ったこととは、「キス」や「お泊り」が

バチェラーという枠組みで、ありかなしかということではないかと思う。

もちろん番組的には「あり」なのでしょう。

ルールを設けているわけでもないし、TVショーですから

全部ショーだと考えてみれば成り立っていると思います。

しかし、一般社会的な枠組みで公然と認められないことだとは思う。

一見、この行為はハラスメントに近い。

一人の王子様をめぐる争奪戦という設定では、圧倒的に王子様にはパワーがある。

彼に気に入られなければ落とされる(仕事を失う)というリスクの中で

あの行為は残念ながら合意の上での純粋な恋心からくるものではなく・・

と解釈できなくもない。

だからこそ、気を付けないといけないのに。

バチェラーの言い分は

「バチェラーという限られた短い期間で、後悔なく誰かを選ばなければ

ならなかった。その人といる時間は、その人だけと向き合う。」

という主旨だった。

これに、他の女性も納得していた人もいたし、MCの一人も

ずいぶんと絶賛していた。

「頭がいい。言い方がうまい。」というようなことだったが。

この行為をめぐって、不信感漂ったり傷ついたり、

一人帰ったり、いろいろあるのだが。

そもそもだけど、デートに誘われてついていったら

海辺に泡だらけのジャグジーがあって、

まずそこに二人で入れというのが拷問では(?)

集団催眠という異常な精神状態という可能性もありますか。

一種、この人を好きにならなければならないという強迫観念とか

暗示にかかった状態。それをTVショーとして見ている私たち。

トゥルーマンショー的な、それを娯楽として楽しむ視聴側の異様さ。

 

一人の社会学者のこれまた不思議な雰囲気の女の子もいたが、

是非参加側の当事者として、集団暗示の有無や一般社会への外挿可能性について

考察してほしいです。

 

この話、どうやらわたしにオチがなさそうだ。

必死に人を好きになって、その人を振り向かせたいとき

人は捨て身になってなんでもやるだろう。

思い当たる節がないわけでもない。

でもその気持ちを利用してエンタメにしたり、ハラスメントを容認していては

なんだかいびつなディストピアの一員になってるようで怖くなる。

 

まだ終わらない、わたしのバチェラーへの考察。

もう一つの違和感が分かった気がしたからだ。

今度はモラルとは逆かもしれないが

セックス抜きにして結婚を目指すということの違和感について。

(自由恋愛下においてという前提)

そもそも男と女が結びつくということに、セックス抜きにしていいのだろうか。

ここでは、セックス必須と言っているのではなく

男女の合意形成のプロセスを問題としています。

結婚を前提に考えると、と何度も言うけれど結婚を前提に相手を選んでいいのか。

「付き合う人は結婚を前提にしか考えられない。」

という人もいるが、これが最も誠実な恋愛のはじめ方だと思う。

つまり「付き合う」というプロセスが抜けている。

したがって、一旦バチェラーに参加した女性は

全員俺のカノジョ、というスタンスをとっていると考えれば

キスもお泊りもセックスもありだということにならないだろうか。

 

一人、少しおバカなキャラの女の子がいた。

彼女はバチェラーに「一夫多妻制の人なの?」みたいな

質問をしていて、その時はなんだか場違いな質問だと感じたが

これはある意味で核心をついていた。

一夫多妻ではないのだが

このバチェラーやっている間、というのは「全員俺のカノジョ」なのだ。

10数名の人と同時に付き合って浮気あり

という設定からはじめている、と解釈するとどうだろうか。

だんだんわたしの落としどころに向かっています。

そうすると、最初にバチェラーとジャグジーで濃厚キスをして

部屋に連れていかれて一晩共にしたって別にいいじゃないか、となれる。

それに耐えられない人は帰っていく。

 

フェアーではない。

あえてそういう世界を作って

暗示もかけながら

箱庭実験みたいなことをやっているんですかね。

 

さて、わたしのバチェラーの出発点

「どーせ、全員有名人になりたくて売名行為で参加しているだけ。

誰も本気で結婚したいとか思ってないし

自分の価値がどれほどか試す格好の機会として出演している。」

これが大きく揺らぐことはなかった。

 

しかし納得がいかなかったり、ちょっと心配になるようなことも

多々あった。傷ついている子をみて何かかける言葉はないか考えていた。

新しいルールが必要か、とか

これを続けて大丈夫か?なんて

求められていないことを一生懸命検討してしまったわたしであった。

 

(したがって、バチェラーに最後まで残ってしまっている人って

わたしからするとだけど、結構イタイ人ということになる。

でも、ものすごい祝福受けたり、トロフィー的名誉?が待っているようなので

それはそれでおめでとうございますって感じでいいのだろう。

ここまで苦労したわりに

ちょっと見栄えのいい浮気がちな彼氏ができた、くらいだというのに。)

 

以上